かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

奇跡の一日(創作掌編)

 

 僕は昼前に会社を早退した。毎年恒例のことなので、誰も気にしないし、何も言われない。

 午前中に予約しておいた花屋で花束を受け取り、駅へ向かった。

 霊園までは、電車を乗り継いで1時間半かかる。緑が豊かで広々とした、公園のような場所だ。

 明るい陽光の下、長いあいだその場に佇み、君のことを思っていた。

 

 初めて会ったときの、ひらめくような不思議な感覚。互いの気持ちを確かめるのに、しばらく時間がかかったけれど、そのあとはまるでローラーコースターに乗っているみたいだった。

 結婚して2人で暮らし始めるまでには、煩雑な課題が山積みで、幸せに酔っていなければ、うまく乗り切れなかったかもしれない。

 小さなケンカと譲り合いを繰り返し、2人だけの型を作りあげていくうち、しだいに僕たちは「家族」になっていった。

 

 僕は安心しきっていたのだと思う。

 朝から仕事に追われていたあの日、遅くまで残業したあと、同僚たちと居酒屋に寄り、終電で家に帰った。

 4回目の結婚記念日だったのを思い出したのは、あくる朝になってからのことだ。

 何度も謝り、君はすぐに許してくれたけれど、僕の胸は怖ろしい予感でいっぱいになった。

 こんなことでは、いつか大切な君を失ってしまうのではないか……。

 

「悪い予感ほど当たるっていうけれど、本当だったね」

 ほかに人影もない霊園で、君に語りかける。悲痛な思いが涙となって、とめどなく流れ落ちた。

「もう一度、君を取り戻すためなら、僕はどんなことだってするよ」

  嘆きながら、強く願い続ける。

 その場を離れたとき、午後の日はゆっくりと傾き始めていた。

  再び電車を乗り継ぎ、重い足取りで家へ向かう。黄昏時の薄闇につつまれたマンションの、窓に灯る明かりがにじんで見えた。

 

 突然、目にしていることの意味に気づいて、息をのんだ。

 誰もいない僕の部屋の窓に、明かりが輝いていたのだ。

(ついに願いが聞き届けられて、奇跡が起こったのだろうか?)

 思うそばから、

(いや、今朝出るときに、消し忘れたのかもしれない)

 と、否定し始める自分を殴ってやりたい。 

 きっぱりと疑いを捨て去った僕は、鍵は取り出さずに、震える指でドアホンを鳴らした。

 なつかしい声が応え、わずかな間のあと、扉が内側から開く。

 

「おかえりなさい」

 こぼれるような笑顔の君に、ずっと持ち歩いていた花束を差し出した。

「結婚記念日ありがとう」と言いながら。

「ありがとう」は少しおかしいと、君がまた笑う。

 

「結婚記念日に早退するなんて、職場の人たちにひやかされなかった?」

「もうみんな慣れたから大丈夫さ。急ぎの仕事っていうのは、終業ギリギリに持ち込まれることが多いからね、早退してしまうのがいちばん安全なんだ」

 僕は答えて、ダークグレーのスーツから明るい色の服に着替えた。ほんとうは、君が思うより何時間も早く、会社を出ていることは内緒だ。

 

 そう━━、

 霊園で喪失の疑似体験をすることは、君と出会えた奇跡を毎年更新するため、考え抜いた末に思いついた、僕の儀式なのだ。

 

 君の両親が結婚祝いとして、郊外の霊園の区画を贈ってくれたときは驚いた。

 生前にお墓をつくることが、長寿や子孫繁栄につながると信じている義父母も、僕のやっていることを知ったら、「縁起でもない!」と怒るに違いない。

  だからこれは、僕が君とのあいだに持っている、最大の秘密。