MNJの自然災害対策行動に初参加して1ヶ月あまり、ようやく帰ってきた銀ひげ師匠の様子は変わりはてていた。
ひげは伸び放題でボサボサ、顔も手も日に焼けて、小さな傷や虫刺されの跡がいくつも見える。
(こんなんで明日からの書道教室、だいじょうぶだろうか?)
晶太は心配になった。
ひげはカットすればいいし、日焼けや傷跡も、魔法もしくはメイクでごまかせるかもしれない。
いちばんの問題は、目だ。
底光りしているような、鋭い目つき。
(魔法使い仲間といっしょに野山を駆け回っていると、こんな風になっちゃうのか。よっぽどハードだったのかな)
晶太の思いに気づくこともなく、師匠は、
「あー、やっぱりウチがいちばんだなぁ」と、鋭い目をほそめる。
とりあえずお茶を入れて、差し出しながらたずねた。
「危険と隣り合わせの、大変な活動だったんですか?」
「いや、そんなことはない。ただひたすら、力のありそうな自然物に挨拶して、合言葉を採集していく地道な作業さ。たとえ千にひとつでも災害時に役立って、人の命や生活を守ることができるかもしれないと思うと、気は抜けなかったけれどね」
ふと、思い出したようにひざを打ち、
「一度だけ、変わった生き物に出くわしたっけ」という。
山奥でひとり、地道な作業にいそしんでいた師匠が出会ったのは、都会風のカジュアルファッションに身を包んだ、若い夫婦だった。
高くそびえ立つ木々のあいだから突然、場違いなふたり連れが現れたことに驚き、師匠は右手に細身の巻物、左手に携帯電話を握りしめて身がまえた。記された合言葉の数が魔法使いの力量を表し、時には武器にもなる巻物、そして、いざとなったら仲間に助けを呼べるケータイだ。
「今は、山でも結構ケータイがつながるから、便利だよね」
「で、そのふたりは何ものだったんですか?」
「きわめて上手く、人間に化けたキツネ。あまりにも完璧に化けたまま、長いあいだ人間の世界で暮らしたせいで、キツネの姿に戻れなくなってしまった『ヒト・キツネ』とでも呼ぶべき生き物さ」
銀ひげ師匠以上に、仰天して怯えたヒト・キツネの夫婦だったけれど、自然災害対策行動中の魔法使いだと知ると、打ち解けて話を聞かせてくれた。
どうやら、その山のどこかに、ヒト・キツネのコミュニティがあるらしい。町なかの路地裏にひっそりと祀られている稲荷神社から、異世界を通ってつながる抜け道が、何本か存在しているそうだ。
キツネでもヒトでもない、中途半端な生き物となってしまった彼らは、同類を求めて山のコミュニティに集まる。そこで結婚相手を見つけたり、子供を育てたりするのだ。
「元の姿に戻れなくなっても、本体はキツネだから、生まれてくるのは子ギツネなんだよね。人間界では育てられないから、コミュニティのなかに共同保育所をつくっているらしい。年寄りのヒト・キツネが子ギツネの面倒を見ているあいだ、親たちは町に働きに出ているのさ」
美男美女のヒト・キツネ夫婦は、目に涙をたたえて語った。
「たとえ離れて暮らしていても、こうして会いに来られるうちは幸せです」
「子供の成長を見ることは喜びそのものですが、不安でもあります」
なぜならば、子ギツネが一定の年齢になると、そのままキツネとして生きるか、それとも親のようにヒト・キツネの道を行くのか、どちらか選ばなければならないからだ。
「もしキツネを選べば、二度と再び会うことはできません……」
子ギツネへのおみやげだろうか、それぞれ百貨店の紙袋を手に提げたふたりは、足早に立ち去っていった。
「おっと、それで思い出した。晶太におみやげを買ってきたんだ」
と、リュックから取り出したのは、温泉饅頭の菓子折りだった。有名な温泉ホテルチェーンのものだ。
「最終日は、温泉でお疲れさま会だったんだ。宴会ではみんな、気の利いたかくし芸を披露するものだから、順番が回ってきたときは、どうしたものかと悩んだよ」
「何をやったんです?」
「晶太にも見せたことがあるよね、習字用の筆を魔法使いのほうきにする、あれ」
よく覚えていた。
このほうきで空を飛びまわるんだ! と、期待したのも束の間、タヌキの毛で出来た毛筆だから「化けるのは得意でも、飛ぶのはからっきしダメ」という言葉にがっかりしたことを──。
「オチの台詞を決めたら、一瞬シーンとしてから、すごく微妙な拍手と笑い声が巻き起こってね」
飄々と笑う銀ひげさんの顔を見ているうちに、晶太のほうも、気の抜けた笑いがこみあげてくる。
(まあ、とにかく、無事に帰ってきてよかった……)
ほっとしたせいか、笑いといっしょに涙もこぼれた。