「ショートショートの神様」星新一さんのことを教えてくれたのは、高校時代の同級生でした。
文庫本を何冊も買って読み耽りましたが、長い長い年月を経た今、手元に残っているのはエッセイ集1冊です。
10年間(1957年~1967年)の作家生活の中で、書き綴った100余点のエッセイが収録されています。
独特の乾いたユーモアと澄んだ文体はそのままで、星新一さんの世界に楽しく滞在することができます。精緻なショートショート作品に比べると、星さんの人間的な「素」が感じられて、興味の尽きない内容です。
「ホテルぐらし」は、作品のほとんどを書斎で執筆してきた星さんが、自宅の前で始まった地下鉄工事の騒音と振動に耐えかね、近所のホテルに部屋を借りて仕事をしたときの話です。
勝手がちがうホテルぐらしで、まるで能率があがらず、手すさびにヤニ取り装置のついたパイプを掃除しようとしたところ、ヤニが飛んで壁にべっとりついてしまいました。
あわてて紙でこすったら、その黒いベトベトがひろがってしまった。これはいかんとばかり、石けんをつけ水でこすったら、こんどは壁紙ににじんでしまった。大きなしみあとができた。
「進退に窮した」「一部屋ぶんの壁紙はりかえ代を請求されるだろうか」「こんな苦悩にさいなまれた人は百万人に一人あるかないかだろう」と動揺する星さんが、なんとなく微笑ましい。
一計を案じ、薬局でシミ抜きの方法を聞くこと思いつき、フロントに鍵をあずけて外出しようすると━━、
その時、係が私に言った。
「恐れ入りますが、お部屋を移っていただけませんか……」
もやばれたのかと、私はどきりとした。
ばれていないとしても、他の部屋に移されては、薬品による方法を試みるひまもない。絶望的になった時、係がさらに言ったのである。
「……じつは、きょう、あの室の壁紙をはりかえることになっておりますので」
とても信じられない現象だが、事実だった。もしかしたら神は存在するのではないかと、私はそれ以来ひそかに思いはじめている。
「常識のライン」では、SF作家仲間たちのあいだで、奇妙な言葉遊びが流行っていることを紹介しています。
「命みじかし、たすきに長し」とか、
「涙かくして尻かくさず」だとか、
「女房が病気で、坊主を上手に書いた」などなど、
支離滅裂というか、ナンセンスというか、ばかばかしい限り。しかし、そこが面白いわけで、げらげらと笑う。笑うのは健康にいいそうだから、少しは有益といえるかもしれない。
〈中略〉かくしてSF作家変人説がひろまっていく。
「まともきわまるSF作家が看板では、どこに魅力があるというのだ」
自ら問いながら、
「答え、みなきわめて常識的な人間である」と、実際のところを明かす星さん。
むしろ、一般の人以上に常識を持ちすぎ、持てあましているからこそ、常識を覆すおかしさを感受して笑い、常識外のことだけを作品にできるという、パラドックスめいた現象について語っています。
そして、なんといっても圧巻なのは「創作の経路」です。
ほかの作家の場合はどうなのか知らないが、小説を書くのがこんなに苦しい作業とは、予想もしていなかった。
という星さんは、締め切りが迫ると、ひとつの発想を得るためだけに、8時間ほど書斎にとじこもるといいます。無から有をうみだすインスピレーションを得るまでの様子は、まさに格闘そのものです。
メモの山をひっかきまわし、腕組みして歩きまわり、溜息をつき、無為に過ぎてゆく時間を気にし、焼き直しの誘惑と戦い、思いつきをいくつかメモし、そのいずれにも不満を感じ、コーヒーを飲み、自己の才能がつきたらしいと絶望し、目薬をさし、石けんで手を洗い、またメモを読みかえす。けっして気力をゆるめてはならない。
これらの儀式が進むと、やがて神がかり状態がおとずれてくる。といっても、超自然的なものではない。思いつきとは異質なものどうしの新しい組合せのことだが、頭のなかで各種の組合せがなされては消える。そのなかで見込みのありそうなのが、いくつか常識のフルイの目に残る。さらにそのなかから、自己の判断で最良と思われるものをつまみあげる一瞬のことである。分析すれば以上のごとくだが、理屈だけではここに到達できない。私にはやはり、神がかりという感じがぴったりする。
この峠を越せば、あとはそれほどでもない。ストーリーにまとめて下書きをする。これで一段落、つぎの日にそれを清書して完成となる。清書の際には、もたついた部分を改め、文章をできるだけ平易になおし、前夜の苦渋のあとを消し去るのである。
このような経路をたどって、1001編を超すショートショート作品が、この世に送り出されました。没後21年を経過しても、星新一さんの本が文庫で店頭に並び、新たな読者を待っているのは嬉しい限りです。
ちなみに、私がいちばん好きなのは『鍵』(新潮文庫「妄想銀行」所収)です。
偶然に拾った鍵の、不思議な美しさに魅せられた男が、その鍵で開けることのできるドアを探して世界中を旅する、というお話。
結末はもちろん、意表をつきながら深い余韻を残す、星新一ワールド屈指の素晴らしさです。