【連作掌編の第3話です】
銀ひげ師匠のところに、初めて、『魔法使いネットワーク・ジャパン(MNJ)』から、自然災害対策行動のお知らせが来た。
群れることを好まない魔法使いたちも、たまに集うのは歓迎するみたいだ。
師匠は感無量である。
「これでやっと私も、一人前の魔法使いと認められたわけだ。やっぱり弟子を持てたからかなぁ。君に感謝するよ」
「救助活動をするんですか?」
晶太がたずねると、
「いいや、そういう専門的なことができるのは、精鋭中の精鋭さ。私のような一般の魔法使いは、チームで手分けして、地道な作業をするんだ。例えばね──」
といって教えてくれた。
山や川に古くから存在する自然物、樹齢の長い樹々、大きな岩石などは、その地の守護神になっていることが多いので、挨拶して親しくなる。授かった合言葉は、災害時に精鋭魔法使いが活用できるよう、MNJで一括管理する。
さらに、昔から各地に言い伝えられている「予兆」のメンテナンスも重要。
「蛇が樹に登れば大水」のヘビ
「雉が騒ぐと地震」のキジ
「銀杏の葉が早く落ちた年は大雪」のイチョウ
「湖がドンドン鳴ると大風が吹く」の湖
など、それぞれを司る神様に挨拶して、引き続き土地の人たちのため、異変を前触れしてくれるよう頼む。
「しばらく旅に出なければならぬ。晶太、留守をお願いできるかな」
「はい」
「半月以上の間、書道教室を休業するわけにはいくまい。影武者の魔法を使おう」
といって、普段着にしている作務衣を2着、並べて広げた。
両方とも似た色合いだけれど、どちらかというとブルーグレーのほうを「灰一」、グレーブルーのほうを「紺二」と名付ける。
「2着、使うんですか」
「洗い替え用にね。灰一と紺二は2日ごとに交替するから、休んでいる方の洗濯を頼むよ。普通に洗濯機で洗って、日に干して乾かし、たたまずハンガーのまま奥の部屋につるしておいてほしい」
師匠は、作務衣を司る神様から授かっている合言葉に続けて、「ウタ」と呼ばれる魔法の呪文を唱えた。
「いいかい、晶太。日頃から身近にある物の合言葉を知るように努めていれば、いざという時、こうしてスムーズかつスピーディに魔法をかけることができるのだよ」
「わかりました。師匠、影武者の魔法はうまくいったのでしょうか?」
「もちろん」
「灰一も紺二も作務衣のままで、ちっとも変わってないですけど……」
「ははは、そっくりなのが2人揃っているところを、誰かに見られたらまずいだろう。だから、私が同じ屋根の下にいるときは、このままなのさ」
あくる朝、銀ひげ師匠は勇んで旅立っていった。
晶太はバス停まで付いていき、リュックを背負った背中を見送った。
(ずいぶん中年になってからの初参加だけど、まわりにうまくなじめるだろうか?)
心配しながら書道教室へ戻ってくると、「灰一」を着た影武者が、師匠とまったく同じ姿と声で、
「おかえり」といって、晶太を迎えた。
「灰一」と「紺二」が影武者を交替するのは、2日にいちど、朝の8時に設定されていた。
普段は、学校帰りに寄って、部屋のすみに落ちている作務衣を拾い集め洗濯する。
チェンジする瞬間も見てみたいので、休みの日には朝から書道教室へ行った。そばで観察していると、だんだん話し方の速度が落ちてきて、顔が無表情になったと思ったら、突然、畳のうえに崩れ落ちた。中身は空っぽ、ただの作務衣に戻っている。
間もなく廊下に足音がして、入れ替わったばかりの影武者が現われ、何事もなかったみたいに、さっきまでしていた話を続けるのだった。
(こんどは、抜け殻になるときじゃなくて、入るときを見てみよう)
次の休みの日、楽しみにして出掛けていくと、影武者「灰一」が言った。
「おはよう、晶太。今日はこれから、お客が来るんだよ」
「えっ!」
「成人クラスの生徒さん。急に転勤することが決まって、当分のあいだ書道教室に通えなくなるそうで、その挨拶にね」
あと30分で8時だ。挨拶だけで済むならいいけれど、話が長引いたりしたら、影武者が入れ替わる瞬間を目撃されてしまう。
気をもむ晶太にはお構いなしで、「灰一」はのんびりとお茶を準備をし始める。
玄関の引き戸が開く音がして、
「おはようございます。こんな早い時刻に、すみません」と、男の人の声が聞こえた。
出迎えにいった「灰一」師匠は、朗らかに挨拶をかわし、そのまま来客を連れて戻ってくる。
「こちらは、子供クラスの生徒さん。今朝は習字の朝稽古に来ています」
などと紹介されたので、仕方なく晶太は、後ろのほうの長机で墨を磨りはじめた。
「灰一」は、相手を「和之さん」と親しそうに呼んで、お茶をすすめている。ひとしきり続いた話が途切れ、ふと静かになったので、
(もう、帰るのかな?)
目をあげてようすをうかがうと、お客がしみじみとした口調で語り始めた。
「こちらの書道教室へ通っていて、いちばん嬉しく思っていたことが何だったか、先生はおわかりになりますか?」
「さあ、なんでしょう?」
「実は、ずっとファーストネームで呼んでもらっていたことなんです。最初に練習した文字が、自分の名前の『和之』だったので、まず先生が呼び始めて、他の生徒の皆さんもそれにならって呼んでくれるようになった。慣れないうちは、気恥ずかしかったんですけれどね」
といって、首をすくめる。
「この年齢になると、家では『お父さん』だし、会社では名字か役職で呼ばれます。学生時代の友人とは、お互い忙しくてめったに会えません。気がつけばもう、ずいぶん長い間、名前で呼ばれることなどありませんでした。だから、なんだか嬉しくてねえ、おかしな話ですが」
「いえ、おかしいことはありません。名前は大切ですよ。だから、初心者の生徒さんには、最初に自分のお名前を、練習することを…、お勧めして…、いるんです」
(まずい、「灰一」師匠の話し方がゆっくりになってきた。もう時間切れだ!)
晶太はとっさに、合言葉と「ウタ」を唱えた。
呪文に応え、玄関のガラス戸が音をたてる。誰かが握りこぶしで叩いているような音だ。
「おや、お客さん、かな? ちょっと…、失礼」
ゆるりと立ち上がった「灰一」が教室から出ていく。入り口に近いところに座っている晶太の耳に、作務衣が床に落ちる「バサッ」という音が聞こえた。
和之さんは何も気づかず、お茶をすすっている。
(さあ、これから、どんなふうにごまかそうか)
必死に知恵をしぼっているとき、玄関の戸を開け閉めする音がして、ブルーグレーの作務衣を抱えた「紺二」が、教室へ戻ってきた。
「あれっ、その作務衣はどうしたんです。どなたかいらっしゃったのでは?」
和之さんが目をまるくして尋ねる。
「この作務衣は、洗濯して外に干しておいたのですが、どうやら風に飛ばされたらしい。今、拾ったご近所さんが、届けに来てくださったんですよ」
「ああ、そうだったんですか。この辺はまだ、人情味があっていいですよね」
「まったくです」
お客のもとへ戻りながら、「紺二」は晶太にだけ見えるよう、横顔に共犯者の笑みを浮かべてうなずいた。
(やるなあ、さすが銀ひげ師匠の影武者……)
晶太は、胸をなでおろしながら感嘆したのだった。