ハヤさんの店は珈琲の専門店なので、フードメニューに載っているのはトーストとゆで卵だけだった。
それでも、午後になると「本日の焼き菓子」なるものが現れ、私はよくコーヒーと一緒に注文している。
ある日、店に入ろうとして、その焼き菓子を納品している人物を目撃した。
席に落ち着き、コーヒーと日替わりの焼き菓子を頼んでから、
「さっき、お菓子を届けにきていた人、きれいな女性だったけど、ひょっとして奥さま?」
たずねると、ハヤさんは目を見張って答えた。
「いえ、あれは妹です。駅前の洋菓子店でパティシエをしているので、出来立ての焼き菓子を毎日届けてもらっているんですよ」
「あ、そうなの」
前世で寸一だったころの話ばかり聞いているから、現世のことを知ると少し驚く。
本日の焼き菓子はマドレーヌだった。
コーヒーと共に味わいながら、昔語りが始まるのを心楽しく待った。
△ ▲ △ ▲ △
お千代様は、かねがね言っていた。
「私があの世へ行く時は、けっして呼び返さぬよう頼んであるのですよ」
というのも、昔から、家の者が息を引き取ると、旅立とうとしている魂を引き戻すため、家長が屋根に上り、大声で名を呼ぶという習わしがあったからだ。
(いつかはそういう日が来るのかもしれないが、それは、ずっと先のこと)
と、寸一たちは思っていた。
しかし、胸が塞がるような知らせは、突然やってきた。
寸一はすぐさま、伊作と長太郎を連れて、お千代様の屋敷を訪ねた。会うことは叶わないまでも、せめて敷地の一隅に、身を置いていたかったのだ。
この屋敷で幾度となく、催されてきた集いを思い出す。
寸一の祈祷により神隠しにあった魔を祓う、というのは名目で、その実、この上なく和やかな歓談の会であった。
一同そろって出掛けたこともある。
心清らかな娘を守護したと伝えられる「羽衣」の、奉納舞を観た宵祭り。
皆が、寸一の寄宿する寺を訪ねてきた折は、近隣のサトという妻女に頼み、亡き母から教わった料理を供して喜ばれた。
お千代様は、伊作の家族がふえるたび、祝いの品を届けさせたという。
石工になりたいと言い出した長太郎には、付き合いのある石屋を引きあわせた。
やがて、屋根の上に、屋敷の当主が姿を現した。
お千代様との約束を守ってか、ただ静かに、明るく晴れた空を見上げている。
伊作と長太郎が、身をふるわせて泣き始めた。
寸一は居たたまれなくなって、その場を離れた。嘆きを共にすることも出来ないほど、激しい悲痛に苛まれていたのだ。
(なんとしたことだ)
これまで、幾人もの肉親や知音と死に別れてきたが、これほどの喪失感を覚えたことはない。
慟哭をこらえつつ、よろめき歩いて何処かへ身を隠そうとしたとき、前を遮るように人影が立った。
美しい娘が、なつかしげに微笑みを浮かべ、寸一を見つめている。
思わず顔をそむけながら、
「どなたかは存じませぬが……」
と言うと、染み入るような優しい声が返ってきた。
「寸一さん、私ですよ」
はっとして見つめ返す。
「あなたは……、お千代様」
火花のようにひらめく思いに、体が揺らいだ。
寸一は、すべてを思い出したのだ。
前世からの深い縁で結ばれていた、お千代様のことを━━。
「今生では添い遂げることは叶いませんでしたが、こうして会えたこと、それだけでいいのです」
お千代様は心安らかな顔で、西の山の方角へ去っていった。
この地では皆、其処から旅立っていくのだ。
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「もう、泣かないでください……」
と言われて、初めて自分が涙を流していることを知った。
「思い出してくれたのですね。今度は私のほうが先に、あなたを見つけました」
ハヤさんの言葉に、私はうなずく。
私が昔、千代だったとき、雨ノ森の草庵で寸一と出会った。
寸一は気づかなかったが、私はすぐに宿命の相手だとわかった。
しかし、もう孫もいるような身だったので、言い出すことができなかったのだ。切ない限りではあったけれども、すべてを胸の内に隠した。
時折、寸一たちを招いて話をするのが、なによりの幸福だった。
「ようやく再び、巡り会えました」
こぼれ出た言葉は、時空を超えた木霊のように、永く響いた。