菫青館は、長年ホテル業界でキャリアを積んだ夫婦が、退職後に始めたペンションだった。料理とワインには定評があり、個性的なイベントが含まれた宿泊プランも用意されている。
ウェブサイトによると、オーナー夫妻の趣味はカメラで、2人とも「平賀源内」のファンだそうだ。
秋穂は、1泊2日の星月夜撮影会を予約した。
初めて訪れた菫青館は、保養地にふさわしい落ち着いた雰囲気の建物だった。
撮影会に先立って行われた星空撮影講座には、その日の宿泊客5組7名が全員参加していた。秋穂のような初心者もいれば、一眼レフカメラや広角レンズ、三脚などの機材を持参しているリピーターもいる。
秋穂が希望した星景色の写真は、普通のカメラで撮ることはできない。
菫青館で発明された特別なカメラを貸してもらうのだ。
講座が始まるのを待つあいだ、同じ目的で来ている年配のご夫婦と言葉を交した。
「私たちの星は、末の息子なの。もう37年になるわ。生きていればちょうど40歳ね」
「想像もつかないな。あの子はずっと、小さいままだよ」
秋穂はうなずいた。よくわかる、止まったままの時計を持ち歩いているようなものだ、肌身離さず……。
「私の星は、もうすぐ7回忌を迎える、親友です」
友だちや仲間は何人もいた。けれど、ほんとうに心を開くことができたのは、奇跡のように出会えた、ただひとりの親友だけだった。
「まだまだ、おつらいわね」
「ええ、でも、星を見つけましたから」
ペンションの女主人、Mrs.菫青館が、古めかしいカメラを手にやってきた。
「お待たせいたしました」
写真機と呼んだほうが似合いそうな、ごつごつとした重いカメラだ。
「こう見えて、最新式の部品を搭載しておりますのよ。必要な設定や操作などは、タブレットで行います。実際の作業は、アングルを決めてシャッターを切るだけ──、いえ、それは言葉のアヤで、プログラムのスタートボタンをフリックするだけです」
秋穂たちは目をみはって聞き入った。
町の明かりがほとんど届かない屋外は、幕を落としたような闇につつまれてる。
それぞれに配られたライトの光をたよりに、Mr.菫青館の先導でしばらく歩き、広々とした高台に着いた。
「すごい……、まさに、降るような星空ですね」
誰かがつぶやく。ほんとうに、この星空を見られただけでも、来たかいがある。
参加者たちが思い思いに、撮影ポイントを探し始めた。
秋穂はスマートフォンのコンパス機能を使って方角を確かめた。満天の星のなかから、すぐに目当ての星を見つける。
Mrs.菫青館と一緒に、三脚を設置してカメラを据えた。試し撮りをしながら、細かい調整をしてもらう。シャッタースピードを遅くする長時間露光撮影なので、事前の設定が大事なのだ。
準備が済むと、
「撮影の開始は、秋穂さんのタイミングでなさってください。あとはタイマーに任せて待つだけです」
と言い、女主人はその場を離れた。
秋穂は大きく息をついてから、撮影をスタートした。カメラのシャッターが閉じるのは25分後だ。
静かに星空を見あげていると、宙に浮遊しているような気持ちになる。
あのとき、ひとり夜道を歩いていて、ふと心を引かれた星──。
まるで呼びかけるように瞬いていた。見つめるうち、もう2度と会うことのできない友の面影が浮かび、なつかしさで胸がいっぱいになった。
秋穂のことをずっと見守っているあの星は、優しすぎるくらい優しかった親友そのものだ。季節が移り変わり、まわりの星座が動いていっても、ずっと同じ空できらめき続けている。一歩ずつ前へ進む力を、与えてくれる存在だった。
けれど、星は日が昇れば消えてしまう。雲に覆われて見えない夜もある。
そこに在るとわかっているのに、心弱く揺らぎ出すことが悲しかった。
だからこそ、星月夜の撮影会にやってきたのだ。
撮影の終了音が小さく鳴った。
タブレットを操作して表示させた画面を、まばたきもせずに見つめる。
夜空を横ぎっていく星の光跡は、規則正しく散りばめられた銀の針のようだ。
同じ方向へ流れていく星々のなかで、たったひとつ動かない光の点が、秋穂に向かって燦然ときらめいていた。
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この掌編は、長い間ストック・フォルダに眠っていました。
主人公が、菫青館で星の日周運動の写真を撮るというストーリーは出来ていたのですが、肝心な「何か」が欠けていました。
高岡ヨシさんの作品を拝読し、足りなかった「何か」を見つけ、完成させることができました。
ありがとうございます。