かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

母と音楽

 

近々、演奏会へ行く予定なので、事前に発表されている楽曲を聴いて予習しています。

こういうとき、YouTubeはほんとうにありがたいですね。

予習曲のひとつ、バーンスタインの「シンフォニック・ダンス」(『ウエスト・サイド・ストーリー』より)を、母の好きそうな曲だと思いながら聴いています。

 

母は10年前に他界しましたが、亡くなる数年前から、認知症パーキンソン病の症状が現れていました。

自力での立ち上がりや歩行が困難になったので、家中に手摺りを設置し、外出は車椅子を利用しました。また、通所や訪問のリハビリなど、専門家のサポートも受けました。

介護というのはもちろん大変なことに違いありませんが、子供たち(私を含めきょうだい3人)で相談し協力しあえたので、とても心強かったです。

当時、派遣社員として働いていた私は、早退や平日の休みなどを派遣先に了承してもらい、その点でも恵まれていました。

 

最もつらかったのは、救急搬送され、さいごの入院となった4週間でした。

家に居れば、記憶があやふやでも心は自由になったお母さん、ですが、病院では「認知症患者」として扱われます。手厚く親切な看護を受けていても、自由を奪われた母は怯え、混乱し、抗議していました。

なんとか自宅へ連れ帰りたい、それが無理なら、長く通っている近所の病院に転院させたいと願って、手続きを進めていましたが、間に合いませんでした。

その後何年も、後悔と罪悪感を引きずることになりました。

 

セルフケアのヒントを探して、心理学や精神世界の本やブログをたくさん読み、たどり着いたのがゲシュタルト心理療法だったのです。

自分でもよくがんばったと思える「ガチな」ワークを通じて、2つのことが腑に落ちました。

ひとつは、私が自責の念に苦しむのを母はけっしてよろこばない、ということ。

もうひとつは、母は母の人生を生き、さいごまで全力で戦ったのであり、それは他の誰にも肩代わりはできない、ということ。

エンプティチェアに座った母(私)は、厳然と言いました。

「あなたは、あなたの戦いを戦いなさい」

まるで、パールズの『ゲシュタルトの祈り』みたいです。

「私は私のことをする。あなたはあなたのことをする……」 

 

今では、つらい記憶だけに捉われることなく、楽しい思い出も、生き生きと思い出せるようになりました。

前置きが長くなりましたが、ここから「母と音楽」です。

 

家で寝ている時間ばかり多くなった母が活気づくような、何かいい娯楽はないかと、私たちは模索しました。好きだった読書もやめてしまったし、テレビにもあまり興味を示さなくなったので、アートセラピーのようなものを考えていました。

もともと好き嫌いをあからさまにしない母でしたが、試行錯誤の結果、音楽が好きなようだとわかりました。それも、ライブ感のある音楽です。

 

たとえば、盆踊り。太鼓や鉦の音、軽快な音頭を聞きながら、楽しそうに拍子を取っていました。

在所は下町なので、お祭りなどのイベントにはことかきません。

小規模ながらも本格的なサンバ・パレードや、地元高校吹奏楽部のミニ・コンサート。

近所のカラオケ屋さんのパーティルームに、車椅子で乗り入れたりもしました。

 

なかでも忘れがたいのが、河川敷で毎年開催されるフェスタです。

多くの屋台が並び、特設ステージではアマチュアグループによる、演奏やダンスのパフォーマンスを楽しめます。

車椅子で片道30分の遠出になりますが出かけました。

会場をひと回りして見物した後、ステージ前に席を取りました。ハワイアン・フラやキッズチームの合唱をながめる母に付き添いつつ、手分けして、佐世保バーガーや焼きそばなどのフェスタ・フードを買い込みます。持ち帰って、遅めのランチにしようという考えでした。

 

さて、そろそろ帰ろうかと思ったとき、ステージではいわゆる親父バンドが演奏を始めました。バンド名が「ベンちゃんズ」みたいな、ザ・ベンチャーズコピーバンドです。

母は熱心に聴いています。

1曲終わったところで、「帰ろう」と促しても、首を縦にふりません。

「お母さん、お腹がすいたからもう帰ろうよ~」

と、中年の子供3人組にせがまれ、

「あなたたちは先に帰りなさい。私はこれをさいごまで聴いていくから」

鷹揚な笑顔で、母は答えたものです。

結局、ベンちゃんズの演奏がすべて終了してから、速攻で帰りました。

フェスタ・フードは電子レンジで温めなおして、おいしくいただきました。

 

自然と笑いがこみあげてくるエピソードのひとつです。

「シンフォニック・ダンス」を聴いていて、思い出しました。