礼美のお祖母さんは、薬草園を営んでいる。
昔は薬草だけを育て、煎じ薬や軟膏にして売っていた。土地の人たちは、どこか体の具合が悪いと、まず薬草園にやってきたそうだ。
時代の流れと共に、扱うのは薬草よりハーブが多くなって、今では「薬草園」といっしょに、「ハーブガーデン」という看板もかかげている。
お得意さまはレストランのシェフ、市場で食材を仕入れたあと、新鮮なハーブを買いにくるのだ。
礼美は毎朝、学校へ行く前に、お祖母さんのところに出かける。2軒の家は隣り合っていて、道路に出なくても裏木戸を通って行き来ができた。
お祖母さんは夜明け前に起きて、1日分のハーブを摘む。種類ごとに袋詰めするのを、礼美は手伝っていた。摘みたてのハーブの香りが大好きなので、楽しい作業だ。
いっしょに朝ごはんを食べ終えたころ、ひとりまたひとりと、お客さまがやってくる。その会話を聞いているのもおもしろかった。
「魚のいいのを仕入れたから、フェンネルとタイムを多めにもらおうかな」
(いったい、どんな料理ができるんだろう?)
「このあいだ、常連さんに紹介されてハーブの専門店から買ってみたけれど、やっぱりこちらの方がいい。ぜんぜん違うんだ」
(そうよね。お祖母さんのハーブは特別だもの)
得意な気持ちになって、礼美はにっこり笑った。
お祖母さんには、最高のハーブを育てる以外にも、不思議な能力が備わっていた。
お客さまの人数や、買いもとめる量と種類は、日によってずいぶん変わるのに、用意したハーブが、足りなくなることはめったにないのだ。
その日さいごのお客さまが帰ったあと、ハーブの袋が2つだけ残っているのを見て、お祖母さんは満足そうにうなずいた。大切に育てたハーブをけっして摘みすぎない、しかも、不測の事態に備えて、少し余裕を残しておくことが肝心なのだと、いつも言っている。
ハーブにくらべると、薬草園の仕事のほうはすっかり縮小していたけれど、手作りの匂い袋だけは別で、ひそかな人気のロングセラー商品なのだった。
生成りの袋に、ブレンドした薬草の粉末を入れた匂い袋は、心が落ち着くすがすがしい香りだ。袋もお祖母さんの手作りで、裁った布をミシンで縫い合わせたあと、薬草を煎じた液を筆にふくませて、さらさらと文字を書きつけて仕上げる。
礼美は最初、文字だとはわからなかった。
「お祖母さん、これ何かの記号?」
「記号じゃなくて、くずし字。『たなごころ』という漢字で、手のひらのことなんだよ」
そう言って、紙に「掌」という字を書いてみせた。
「手のひらには、癒す力があるの。お腹が痛いとき、自然に両手で押さえるでしょう。そうすると楽になることを、体は知っているんだね。体だけじゃなくて、礼美ちゃんがママに頭をなでてもらうと、悲しいのがおさまったり、うれしいときはもっとうれしくなったりするのも、同じ力の働きなんだよ」
「この文字にも、その力があるの?」
たずねると、お祖母さんは大きくうなずいた。
「もちろんさ」
「わたしにも、こういう文字や薬草のこと、もっと教えてくれる?」
「いいとも、ぜんぶ教えてあげる。でも、礼美ちゃんは来年、中学生になるのでしょう。新しく勉強しなければならないことがたくさんある。おとなになったら、礼美ちゃんのママみたいに、専門的なお仕事をしたくなるかもしれない。だから、いそぐことはないんだよ」
お祖母さんはそう言うけれど、礼美はとっくに、薬草園のあとつぎになることを決めているのだ。
ある日、学校の帰りに寄ると、お祖母さんはただならない勢いで、袋に「掌」の文字を書いていた。
そばに置いてある大きな桐箱のなかに、出来あがった匂い袋がいくつも積まれている。ひとつずつ丁寧に手作りしなければならないので、ずいぶん時間がかかったのに違いない。
「よく来てくれた。礼美ちゃんも手伝っておくれ」
「いいけど、どうしたの?」
「この匂い袋を買いにくるお客さまが、どんどん増える予感がする。万が一にも品切れなんてことで、がっかりさせては申し訳ないからね」
数日後、お祖母さんの予感は現実になった。
現れたお客さまは、中学生と高校生のおねえさんたちだ。
放課後の時間になると、 次から次へと匂い袋を買いにやってくる。行列をつくるほどではなかったけれど、しだいに増えてくるお客さまの数におどろきながら、礼美はせかされるように匂い袋作りを手伝った。
ある時、お祖母さんが「もう、これくらいで大丈夫」と、言うまで。
「えっ、ほんとにだいじょうぶなの?」
「そろそろ収まる気配がするよ。それにしても、どうして急に評判になったのかねぇ。話に聞く『SNSで拡散』とかいうものだろうか」
こった肩をさすりながら、お祖母さんは礼美を見た。
「思いがけないことが起きる世の中だ。今回は礼美ちゃんが手伝ってくれて、ほんとうにありがたかった。いろいろ教えるのは、ずっとあとでもいいと思っていたけれど、すぐにでも始めたほうがいいかもしれないね」
翌日、久しぶりに友だちと遊んで帰ってきた礼美は、薬草園から出てきた人とはちあわせしそうになった。
「ごめんなさい」と言い合いながら、ふと見ると、匂い袋を大切そうに握っていることに気がついた。
思わず指さして聞いてしまう。
「その匂い袋、どうして流行っているんですか?」
すると、おねえさんは親切に教えてくれた。
「クチコミで知ったの。これにヒモをつけて、ちょうど心臓の高さになるように首からさげておくの。外からは見えないようにしてね。そうすると、心が静まって、勇気がわいてくるんですって」
「勇気?」
「そうよ、好きな人に告白する勇気。告白する直前に、匂い袋をぐるっと後ろのほうにまわしておくと、こわくなって後戻りしそうになっても、そっと背中を押してくれるらしいの」
いくつも年は違わないのに、うんと年上っぽいやさしいまなざしで礼美を見て、おねえさんは微笑んでいる。
2月14日、バレンタインデーの夕方だった。