元日の朝は、よく晴れて、風が強かった。
どうしようか迷いながら、昌樹はまわり道を続けている。頑固な父親に反発して家を離れてから、久しぶりの帰宅なのだ。
閑静な住宅街に人通りはなかったけれど、どこかでかわいい子どもの声が、風に飛ばされ、とぎれとぎれに聞こえてきた。
「チサトちゃーん……、チサトちゃーん」
呼び声は、少し高いところから降ってくるように聞こえた。小さな女の子が、2階の窓から通りがかった友だちを見つけて、呼びかけているのかもしれない。
角を曲がると、道の先に人影が見えた。こちらのほうへ歩いてくるのは、子どもではなく、着物姿の老婦人だ。
少し歩いては立ち止まり、あたりを見回している。
(落し物かな? 塀の上を見上げているようだから、猫でも探しているとか。まさか……、道に迷っているなんてことは、ないよな)
かわいがってくれた祖母を思い出すと、放っておけない気がして、
「なにかさがしものですか。お手伝いしましょうか?」
と、声をかけた。
おどろいたように顔を向けたその人は、しっかりとしたまなざしで昌樹を見つめ返した。
「ご親切に、ありがとうございます。じきに、見つかると思いますので――」
と、ほほえみながら会釈する。
昌樹はあわててお辞儀を返しながら、まいごのお年寄りかもしれないと思ったことが、早合点だとわかってほっとしていた。
ちょうどそのとき、また、さっきの呼び声が聞こえてきた。
「……チサトちゃーん」
すると、上品な老婦人が突然、声のほうに向かって勢いよく走り出したのだ。
「えっ、あぶないですよ」
思わず昌樹も後を追う。
「チサトちゃん!」
子どもの声が、うれしそうにはずんでいた。
チサトと呼ばれた老婦人は、両手を差し伸べて呼び返している。
「きよちゃん、まあ、あなた、こんなところに。また、風に飛ばされてしまったのね」
追いついた昌樹が目にしたのは、高い塀越しに伸びた木の枝と、その先に引っかかっている、白くふわふわとした、綿あめのようなかたまりだった。
呼び声は、その中から聞こえてくるのだ。
つま先立って手を伸ばしても、届く高さではなさそうだ。昌樹は古びたブロック塀に足をかけてよじのぼると、両手で枝をつかんで体重をかけた。
枝先がしなりながら下がっていく。
チサトさんが白いかたまりを取りはずすのを見届けてから、手を放して地面へ降り立った。
「ああ、よかった。ほんとうに、ありがとうございます」
深々と頭を下げるチサトさんに答えるより、女の子の声の正体のほうが気になってしかたない。
大切そうに、胸に抱えている物体は、いったい何なのだろうか。
「あの、失礼ですが、きよちゃんって?」
思いきって聞くと、ちょっと嬉しげに昌樹を見上げる。
「あら、あなたにも見えるのかしら」
「白いかたまりのてっぺんに、オレンジ色の鞠みたいなものが埋まっているように見えるんですけど」
すると、チサトさんは残念そうに首をふった。
「やっぱりそういうふうにしか見えないのね。ほんとうはね、朱色の晴れ着をきた5歳の女の子が、小さな雲に乗っているの。私のお友だち、きよちゃんよ」
チサトさんはきよちゃんを連れて家に帰るという。昌樹は付き添うように、並んで歩いた。
「きよちゃんは私と同い年でね、いちばんの仲好しだったけれど、五つのときに病気で亡くなったの」
不思議な友情について物語るチサトさんの声は、明るくおだやかだった。
「さいごにお見舞いにいったとき、私たちはふたりとも泣いたりせずに、真剣に相談したの……」
――もっと、チサトちゃんと遊びたかった。
――たましいになって、お盆には帰ってこられるって聞いたよ。
――でも、ほんとうは、お正月がいいの。きれいなきものを着て、みんなにこにこしているお正月が好きよ。
――わかったわ、お正月になったら、きよちゃんを迎えにいく。ゆびきりげんまんね。
約束どおり、元日の朝、チサトさんが道の角で待っていると、小さな白い雲に乗ったきよちゃんがやってきたのだ。1日いっしょに遊んで、あくる朝には帰っていく。
家のおとなたちは、ひっきりなしに訪れる年始客の応対でいそがしく、だれもチサトさんの秘密に気づかなかった。
「私は跡継ぎ娘だったから、お婿さんをもらったの。夫や子どもたちには、きよちゃんのことを話したから、今では70年も続く、わが家の年中行事みたいに思っているわ。孫は『おばあちゃんの、ふわふわ鏡もち』なんて呼ぶのよ。きよちゃんの朱色の着物が、みかんに見えるのかしら」
腕にかかえた親友を、いとおしそうに見つめる。
「きよちゃんと会うと、私も5歳のときの自分に戻れるの。体じゅうに命があふれてくるのよ。長く生きていれば、苦労や悲しみは避けられないけれど、きよちゃんと一緒だから、なんとか乗り越えてこられたわ」
くもりのない笑顔を見せて、チサトさんは帰っていった。
「5歳のときの自分か……」
昌樹は空を見上げた。お正月の空の色は、他のどんな日とも違って見える。
ずっと以前にも、こんなふうに風の強いお正月があった。まだ、小学校に上がる前のことだ。
白い凧が空高く浮かんでいた。初めて見る凧がめずらしくて、飛び跳ねながら声を上げて指差した。
(そうだ、たしかにそんなことがあった。あのとき、親父は俺を肩車して、凧を追いかけてくれたんだ。めったに運動なんてしない親父だったのに)
父親のやせて骨ばった両肩の感触を覚えていた。昌樹の膝をつかむ指の関節が、白く浮き上がって見えたことも、はっきりと思い出される。
(あのときはわからなかったけれど、けっして俺を落とさないよう、すごく力を込めていたんだな)
昌樹は遠まわりをやめて、家への道を歩き出した。