庭に植わっているただ1本の木だったので、詩織はウチノキと呼んでいました。
高さは2階の窓くらい。花も咲かせず、実もつけない木です。
ほっそりとした枝には、いつも緑の葉が揺れていました。
春から初夏にかけてのすずやかな緑は、木漏れ日を染めてしまいそうなほどでした。夏が過ぎ、秋が深まるにつれ、葉の色は少しずつ濃くなり、月の明るい夜には、光をはじいて銀色にきらめくのです。
幼いころ、詩織はウチノキの木陰で、絵本をよむのが好きでした。緑の葉の屋根ごしに、日差しはゆっくりと動いていきました。
学校へ通うようになると、時間は時計に支配されます。ウチノキのそばから、外の世界へ向かって押し出されるように、詩織は成長していきました。
気がつけばもう、ウチノキの木陰は詩織にとって小さすぎ、今では2階の窓から見るだけになりました。
けれど、ウチノキは昔と変わらず、いつもやさしく見守ってくれるのです。
詩織はふと、思うことがあります。
塀に囲まれて、ただ1本だけ立っている木は、とてもさびしそうだと――。
街なかには、いたるところに木が植わっています。学校や公園、神社、広場、そして道沿いにも。並びあった木々の葉が風にそよぐ音は、笑いさざめきながらおしゃべりをしているようにも聞こえます。
ウチノキには、けっしてできないことでした。
「かわいそうな、ウチノキ……」
あるとき、部屋から外をながめていると、赤く色づいた葉が1枚、風に飛ばされてきました。赤い葉は、2階の窓近くまできて翻り、ウチノキの茂った緑のなかへ落ちていきました。
思わず目をみはったのは、そのあとです。
赤い葉をつれてきた風は、しばらくのあいだ枝を揺らしていましたが、つぎの瞬間、今度はウチノキの葉を1枚、運び去ったのです。
緑の葉は、みがかれたような青空を、ひらりと飛んでいきました。
ついさっき、赤い木の葉がやってきた方角でした。
はっとして窓辺を離れ、階段をかけおりて、庭に出ました。
ウチノキの下に、深みのある赤い色の葉が落ちています。ハナミズキでした。
家からほど近いバス通りは、ハナミズキの並木道です。その紅葉の美しさに、目をうばわれて立ちどまったのは、つい昨日のことでした。
「もしかして、このハナミズキはウチノキの友だちなの? こんなふうに木の葉をやりとりして、伝えあっているのかな。あなたのこと、勝手にひとりぼっちだと哀れんだりして、ごめんね」
幹に触れ、そっと話しかけると、詩織の想像を超えた、ゆたかな世界が広がっているのを感じました。
12月もなかばを過ぎて、冷たい風の吹く日が続きます。
詩織は、いつもよりずっと早い時刻に目を覚ましました。昨夜、まくらもとまで聞こえていた風の音は、すっかり静まっています。
しんと澄みきった気持ちで、表に出ました。
ウチノキの下には、吹き寄せられたように、何枚もの木の葉が落ちています。
神社の銀杏や小学校の桜、公園の楓、そしてハナミズキ。
きっとウチノキの葉も、相手の木のもとへ運ばれていったのにちがいありません。耳をすますと、飛び交った思いが聞こえてきそうです。
(春までさよなら)
(ありがとう)
(ずっと、だいすき)
赤、黄色、うす茶、レンガ色――、色とりどりの木の葉は、まるで、届いたばかりのクリスマスカードでした。