かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

柚子の香り(創作掌編)

 

 奏多が学校から帰ってきて、玄関の鍵を開けているとき、宅配便が届いた。

「あおぞらファーム」というロゴが印刷されたダンボール箱は、大きくはないけれどずっしりとしている。見覚えのある箱だ。なかみは有機栽培の柚子で、以前は毎年のように、祖父が取り寄せていた。

 送り状ラベルを見ると、届け先が奏多の名前になっていて、依頼人は祖父だった。

(何かのまちがいじゃないかな)

 奏多は首をかしげた。

 

 数年前からもの忘れが多くなった祖父は、今年に入って急に症状が進み、夏には専門の施設に入居した。家族の顔もわからなくなる病気だと聞いていたものの、まっ先に自分が忘れられてしまったときは、ショックだった。 

 施設へは、夏休みに両親と一緒に訪ねたきりだけれど、車椅子に座った祖父は、表情もとぼしく、ほとんど何もしゃべらなかった。

 とても宅配便を手配できるとは思えない。

 奏多は、送り主の農園に電話してみることにした。

 

「はい、あおぞらファームでございます」

 呼出音を数える間もなく、はきはきとした女の人が電話に応えた。

 今さっき、柚子が送られてきたことを伝えると、

「ナカヤマカナタさまですね。ただいまお調べします。ご依頼主は、中山健司さま。そうそう、私が電話を受けたのでよく覚えています。ご注文いただいたのは、たしか今年の5月でした」

「5月ですか!」

「はい、発送まで半年以上、お待ちいただくことになると申しあげたら――」

 といって、そのとき祖父と交わした会話の内容を話してくれた。

 

 

 あくる日、奏多は柚子をいくつか持って、祖父に会いに行った。電車とバスを乗り継いでいく途中、あおぞらファームの人から聞いた祖父のことばを、何度も思い返した。

 

――半年先? かまいませんよ。先払いでお願いします。お手数でしょうが、シーズンを待っているうちに、忘れてしまうかもしれないからね。どうも近頃、もの忘れがひどくなって、このあいだはうっかり孫の顔を思い出せず、いや、参りましたよ。かわいそうなことをしたなぁ……。

 

 初めてひとりで訪ねた施設の、日当たりのいいデイルームで、奏多は祖父と向いあって座った。

「お祖父ちゃん、ぼく、孫の奏多だよ。きょうは、これを持ってきたんだ」

 ひざ掛けの上に置かれた手に、柚子をひとつ渡す。

「あおぞらファームから、きのう届いたんだ。お祖父ちゃんが、5月に注文したんだって。5月だなんて、せっかちなのか、気が長いのか、どっちかわからないね」

 あいまいな表情を浮かべたまま、祖父は黙っていた。

 

 ふいに、柚子がつよく香った。

 祖父の白く細い指が、柚子をつかんでいる。爪がくいこみ、そこから香りたっているのだ。

 その目が不安でいっぱいになっていることに、奏多はようやく気づいた。

(ぼくは、忘れられることが怖かったけれど、忘れてしまうお祖父ちゃんのほうが、もっと怖いんだね)

 

 返事やあいづちがなくても気にせずに、奏多はしゃべり続けた。一歩ずつゆっくりと、共に歩いていくようなつもりで話した。

 あおぞらファームは、昔、祖父が旅先で立ち寄った場所で、農園のなかにあるレストランの料理がおいしかった、ということ。

 冬至にふたりで入った柚子湯。

 年越しには、刻んだ柚子の皮を浮かべたお蕎麦。

 祖父が奏多の父親と楽しそうに、お湯で割った焼酎に柚子を入れて飲んでいたこと。

 

 目を見てうなずき、笑いかける。

「お祖父ちゃん、思い出せなくても、忘れちゃっても、だいじょうぶだよ。ぼくが全部、覚えているからね」

 夢中で話しているうち、ふっと祖父が笑った。

 雲の切れ間からのぞく、お日さまみたいな笑顔だった。

 

 

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