かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

断片をたどって(創作掌編)

 

 さっきまで騒がしさが嘘のように、静かになった。

 私は、 ほっとして歩きつづける。不思議なくらい身も心も軽く、気分は上々だ。

 このところ、何かと大変だったけれど、済んでしまえばどうということもない。結局また、取り越し苦労だっだのだろう。

 今はただ、きらめくような幸福感に満たされている。

 

 道の先に、何か落ちていた。

 手のひらほどの大きさの、平たい断片だ。不定形としかいいようのない形で、表面には彩りゆたかな模様が描かれている。見ているだけで心楽しくなるデザインだったので、拾いあげてトートバッグに入れた。

 少し行くと、また小片を見つけた。色も形もさっきとは違う。やさしい中間色のグラデーションで、角が丸かった。

 

 私は、行く先々で断片を拾い集めながら、歩いていった。

 どす黒く濁った色もあれば、触れると手が切れそうなほど鋭い形もある。のっぺりしたもの、ふわふわしたもの、悲しいもの……。

(どんなひとが、落としていったのかな?)

 捨てていったのではないということは、わかっている。大切なものを落としていくほど、急いでいたのだ。

(ひとつのこらず拾って、届けてあげよう)

 やがてトートバッグはいっぱいになった。それなのに、少しも重くない。

 

 道がゆるやかなカーブを描いて、きれいな川に行き当たった。

 流れる水は明るく透きとおり、川底に敷きつめられた白い小石が、きらきらと光って見える。

 川幅は広いものの浅く、歩いてでも渡れそうだ。

 心を惹かれながら、しばらくながめていたけれど、落とし物を届けなくてはならないことを思い出した。

 見ると、川のそばに大きなミュージアムが建っている。あそこで落とし主に会えるかもしれない。

 

 ミュージアムの入り口は開放されていて、人影ひとつ見えなかった。

 エントランスホールの天井の高さに感心しながら入っていくと、奥から威厳のある老人が現れ、私を出迎えた。

「これを、持ってきました」

 トートバッグの中身を見せて説明する。

 老人は、表情を和らげてうなずくと、先に立って展示コーナーまで私を案内した。

 

 正面には、見たこともないほど大きな、壁画が描かれている。

 それは風景画だった。

 春の明るさ、夏の輝かしさ、透明な秋、静かな冬。四季のすべてが表現されていた。

 それはまた、人物画でもあった。

 私がこれまで、縁あって出会った人のすべてを見つけることができた。

 パノラマのように広がった絵の世界には、エピソードがちりばめられ、歌と音楽が流れ、物語が展開していた。

 暮らしがあり、旅があり、冒険があった。

 それらのすべてを、私は一目瞭然に見て取ることができたのだ。

 

 老人の合図で、奇妙な生き物が一団となって飛んできた。カエルによく似た姿をしており、色は空色で、背中に羽が生えている。

 かれらは、床に置かれたトートバッグのなかから断片を1つずつ取り出し、それを抱えたまま、次々に壁画の方へ飛んでいった。

 その動きを目で追ううち、完璧と思えた絵のあちらこちらに、欠落している部分があることに気づいた。

 空飛ぶカエルたちは、持っている欠片を、ぴたりぴたりと絵にはめこんでいるのだった。

 まるで、巨大なジグソーパズルにピースをはめていくように──。

 

 さいごのピースが収まった瞬間、絵と私が一体のものになったように感じた。

 頭が信じられないほど明晰に澄み切って、ようやく私は、自分が生まれてきた意味を覚ることができた。

 ずっと、人生に意味などないと思っていたが、あれは、ただ断片だけを見ていたからだったのだ。こうして全体がひとつにまとまってみれば、まさに意味そのものだった。

 

 奇妙な生き物たちは、仕事を終えて帰っていった。

 老人は退出する前に、いちどだけ振り向いて私を見たが、その顔には見覚えがあった。

 母方の曾祖父の顔だ。

 私が生まれる前に亡くなっているので、写真でしか知らないのだが、向けた顔の角度や表情まで、遺影そのままなのだ。

 わきあがってくる不安を振り払うように、私は壁画に向き直った。

 しかし、絵はすっかり精彩を失い、そればかりか、全体に無数の細かいひび割れが生じ始めているではないか。

(えっ、そんな!)

 悲鳴をあげようとしたが、弱々しいうなり声にしかならなかった。

 

 だれかがスイッチを入れたように、不快感と痛みが一瞬で身体中に広がった。ユニフォームを着た人たちが集まって、横たわった私の周りを動きまわっている。耳障りな機械音と薬品のにおいで、記憶の切れ端がよみがえってきた。

 私は数日間続いた高熱で意識を失い、救急搬送されたのだった。

 ようやく治療が一段落すると、今度は家族がやってきた。マスクと不織布のキャップで、顔の大部分が隠されていたけれど、泣いて喜ぶ姿を見て初めて、戻ってきてよかったのだ、と思う。

 

 時間切れで家族が連れ出されると、入れ替わりに、医療スタッフが来て仕事を始めた。

 陽気な女性で、いろいろ話しかけてくれるのはいいのだが、子供相手のような口調には辟易する。悪気がないのは承知しているし、これまで面倒をかけ、これからもお世話になる人なので、角が立たないように、穏やかにこちらの気持ちを伝えたいと思う。

 ところが、話し出そうとして戸惑った。

 思考はあれほど自由自在だったのに、まだ記憶が充分に戻っていないせいか、言語表現力がひどく不足しているようだ。

 四苦八苦してようやく出てきた言葉が、

「看護師のおねえさん、あたしはいくつだと思う?」である。

 

 看護師のおねえさんは、軽く目をみはり、手もとのクリップボードをすばやく確認してから答えた。

「星葉ちゃんは、ここのつよ。あら、もうすぐお誕生日が来るのねー」

 

 

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ユングの臨死体験

 

以前から臨死体験の話には興味を持っていましたが、両親が他界したことで、関心が深まったように思います。

「死の受容のプロセス(否認~怒り~取引~抑うつ~受容)」で有名なエリザベス・キュブラー・ロス博士の本を読むうち、さらに広範囲に知りたくなり、たどりついたのが、
立花 隆 著『臨死体験〈上・下〉』(文春文庫)でした。

 

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

 

 

【内容】
まばゆい光、暗いトンネル、亡き人々との再会──死の床から奇跡的に蘇った人々が、異口同音に語る不思議なイメージ体験。
その光景は、本当に「死後の世界」の一端なのだろうか。
人に超能力さえもたらすという臨死体験の真実を追い、著者は、科学、宗教、オカルトの垣根を超えた、圧倒的な思考のドラマを展開する。 

 

 「私はかねて臨死体験に興味をもっていた」という著者は、1990年にワシントンのジョージタウン大学で、13ヵ国300人の研究者と体験者を集めて開かれた、臨死体験研究の第一回国際会議に出席し、1年間をかけての取材は、日本各地はもとより、アメリカ、カナダ、イタリア、インドにまで及びます。

先述のロス博士をはじめ臨死体験研究の第一人者や、国内外の体験者へのインタビュー、最新の脳生理学から精神世界まで、幅広く多方面にわたる理論や実験の紹介など、圧倒的な知的探究心には敬服しました。

 

臨死体験の話は、日本の歴史的文献にも記されていて、その最初は、平安時代初期の仏教説話集『日本霊異記』だといわれます。

推古天皇の時代、聖徳太子の侍者をしていた男が、聖徳太子が亡くなった4年後に死ぬのですが、3日間過ぎてから突然生き返り、妻子に語ったという話です。

彼は、かぐわしい香りに満ちた五色の雲の中を歩き、黄金の山で亡き聖徳太子に出会います。そして、

「はやく家に帰って仏を作る場所を掃除せよ」

といわれ、現世に戻ってくるのです。

 

たくさんの文献や証言に触れるうち、著者に生じてきた不満は、体験者の原体験そのものと、その表現との間にある深い落差でした。

「その落差がどれくらい大きいかは、その人の言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などにかかってくることだから一口には何ともいえない」

 しかし、ここに、このすべての能力をかねそなえた原体験者自身が記録者になったという稀有の体験例がある。〈中略〉精神医学の巨人、C・G・ユングその人である。ユング自身が臨死体験をしているのである。それが彼の自伝(邦訳・みすず書房刊)の中に詳細に記されている。

  読んでいて心躍るような、スーパースターの登場です。

 

ユングは1944年のはじめに、心筋梗塞につづいて足を骨折するという災難に遭い、意識喪失のなかで譫妄状態となって、さまざまの幻像(ヴィジョン)をみました。

幻像はちょうど、危篤に陥って酸素吸入やカンフル注射をされているときに始まり、そのイメージがあまりにも強烈だったので、ユングは「死が近づいたのだ」と思います。

「とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである」

 

『青い地球をユングは見た』

 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた。 

このあとさらに続く地球の姿の記述に、著者(立花隆)は驚きました。アポロが撮った地球の写真と一致していたからです。

(1968年にアポロ8号から撮影された写真が、初の地球の全体写真といわれています)

 

『私は存在したもの、成就したものの束(たば)である』

ユングは、しばらくの間「私が今までにみた光景のなかで、もっとも美しいものであった」という地球を眺めたあと、自分の家ほどもある大きさの、隕石のような黒い石塊が、宇宙空間をただよっているのを発見します。その石塊は中がくり抜かれて、ヒンドゥー教の礼拝堂になっていました。

ユングがその中に入り、岩の入り口に通じる階段へ近づいたとき、不思議なことが起こります。

自身の目標、希望、思考したもののすべて、そして、地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように、ユングから消え去り、離脱していったのです。

その過程はきわめて苦痛でしたが、残ったものもいくらかはありました。

かつて、自分が経験し、行為し、身のまわりで起こったことのすべてが、まるで「今ともにある」というような実感です。

『これこそが私なのだ』という深い納得でした。

 

 このようにして、ユング臨死体験を通じて、人間存在の本質を洞察するにいたるのである。

 人は死ぬとき、この世に属する一切のものを捨てていく。それと同じことが、臨死体験でも起こる。捨てられて消えていくのは物質的存在だけではない。この世に属する思いの一切が捨てられ、欲望や我執の一切が、希望さえ含んで消えていく。全てを捨てて捨てていったとき、最後の最後にギリギリ残るものは何なのか。これこそが私、といえるものは何なのか。それは私のまわりで起きたできごとの総体であり、私自身の歴史であり、私の成就したものの総体であるとユングはいう。

 

まさに、「三途の川とお花畑だけが臨死体験なのではない」ということを証明する、稀有の体験例です。

 

 

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影武者(創作掌編)~銀ひげ師匠の魔法帖③~

 

【連作掌編の第3話です】 

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 銀ひげ師匠のところに、初めて、『魔法使いネットワーク・ジャパン(MNJ)』から、自然災害対策行動のお知らせが来た。

 群れることを好まない魔法使いたちも、たまに集うのは歓迎するみたいだ。

 師匠は感無量である。

「これでやっと私も、一人前の魔法使いと認められたわけだ。やっぱり弟子を持てたからかなぁ。君に感謝するよ」

「救助活動をするんですか?」

 晶太がたずねると、

「いいや、そういう専門的なことができるのは、精鋭中の精鋭さ。私のような一般の魔法使いは、チームで手分けして、地道な作業をするんだ。例えばね──」

 といって教えてくれた。

 

 山や川に古くから存在する自然物、樹齢の長い樹々、大きな岩石などは、その地の守護神になっていることが多いので、挨拶して親しくなる。授かった合言葉は、災害時に精鋭魔法使いが活用できるよう、MNJで一括管理する。

 さらに、昔から各地に言い伝えられている「予兆」のメンテナンスも重要。
「蛇が樹に登れば大水」のヘビ
「雉が騒ぐと地震」のキジ
「銀杏の葉が早く落ちた年は大雪」のイチョウ
「湖がドンドン鳴ると大風が吹く」の湖
 など、それぞれを司る神様に挨拶して、引き続き土地の人たちのため、異変を前触れしてくれるよう頼む。

 

「しばらく旅に出なければならぬ。晶太、留守をお願いできるかな」

「はい」

「半月以上の間、書道教室を休業するわけにはいくまい。影武者の魔法を使おう」

 といって、普段着にしている作務衣を2着、並べて広げた。

 両方とも似た色合いだけれど、どちらかというとブルーグレーのほうを「灰一」、グレーブルーのほうを「紺二」と名付ける。

「2着、使うんですか」

「洗い替え用にね。灰一と紺二は2日ごとに交替するから、休んでいる方の洗濯を頼むよ。普通に洗濯機で洗って、日に干して乾かし、たたまずハンガーのまま奥の部屋につるしておいてほしい」

 

 師匠は、作務衣を司る神様から授かっている合言葉に続けて、「ウタ」と呼ばれる魔法の呪文を唱えた。

「いいかい、晶太。日頃から身近にある物の合言葉を知るように努めていれば、いざという時、こうしてスムーズかつスピーディに魔法をかけることができるのだよ」

「わかりました。師匠、影武者の魔法はうまくいったのでしょうか?」

「もちろん」

「灰一も紺二も作務衣のままで、ちっとも変わってないですけど……」

「ははは、そっくりなのが2人揃っているところを、誰かに見られたらまずいだろう。だから、私が同じ屋根の下にいるときは、このままなのさ」

 

 あくる朝、銀ひげ師匠は勇んで旅立っていった。

 晶太はバス停まで付いていき、リュックを背負った背中を見送った。

(ずいぶん中年になってからの初参加だけど、まわりにうまくなじめるだろうか?)

 心配しながら書道教室へ戻ってくると、「灰一」を着た影武者が、師匠とまったく同じ姿と声で、

「おかえり」といって、晶太を迎えた。

 

「灰一」と「紺二」が影武者を交替するのは、2日にいちど、朝の8時に設定されていた。

 普段は、学校帰りに寄って、部屋のすみに落ちている作務衣を拾い集め洗濯する。

 チェンジする瞬間も見てみたいので、休みの日には朝から書道教室へ行った。そばで観察していると、だんだん話し方の速度が落ちてきて、顔が無表情になったと思ったら、突然、畳のうえに崩れ落ちた。中身は空っぽ、ただの作務衣に戻っている。

 間もなく廊下に足音がして、入れ替わったばかりの影武者が現われ、何事もなかったみたいに、さっきまでしていた話を続けるのだった。

 

(こんどは、抜け殻になるときじゃなくて、入るときを見てみよう)

 次の休みの日、楽しみにして出掛けていくと、影武者「灰一」が言った。

「おはよう、晶太。今日はこれから、お客が来るんだよ」

「えっ!」

「成人クラスの生徒さん。急に転勤することが決まって、当分のあいだ書道教室に通えなくなるそうで、その挨拶にね」

 あと30分で8時だ。挨拶だけで済むならいいけれど、話が長引いたりしたら、影武者が入れ替わる瞬間を目撃されてしまう。

 気をもむ晶太にはお構いなしで、「灰一」はのんびりとお茶を準備をし始める。

 玄関の引き戸が開く音がして、

「おはようございます。こんな早い時刻に、すみません」と、男の人の声が聞こえた。

 

 出迎えにいった「灰一」師匠は、朗らかに挨拶をかわし、そのまま来客を連れて戻ってくる。

「こちらは、子供クラスの生徒さん。今朝は習字の朝稽古に来ています」

 などと紹介されたので、仕方なく晶太は、後ろのほうの長机で墨を磨りはじめた。

 「灰一」は、相手を「和之さん」と親しそうに呼んで、お茶をすすめている。ひとしきり続いた話が途切れ、ふと静かになったので、

(もう、帰るのかな?)

 目をあげてようすをうかがうと、お客がしみじみとした口調で語り始めた。

 

「こちらの書道教室へ通っていて、いちばん嬉しく思っていたことが何だったか、先生はおわかりになりますか?」

「さあ、なんでしょう?」

「実は、ずっとファーストネームで呼んでもらっていたことなんです。最初に練習した文字が、自分の名前の『和之』だったので、まず先生が呼び始めて、他の生徒の皆さんもそれにならって呼んでくれるようになった。慣れないうちは、気恥ずかしかったんですけれどね」

 といって、首をすくめる。

「この年齢になると、家では『お父さん』だし、会社では名字か役職で呼ばれます。学生時代の友人とは、お互い忙しくてめったに会えません。気がつけばもう、ずいぶん長い間、名前で呼ばれることなどありませんでした。だから、なんだか嬉しくてねえ、おかしな話ですが」

「いえ、おかしいことはありません。名前は大切ですよ。だから、初心者の生徒さんには、最初に自分のお名前を、練習することを…、お勧めして…、いるんです」

 

(まずい、「灰一」師匠の話し方がゆっくりになってきた。もう時間切れだ!)

 晶太はとっさに、合言葉と「ウタ」を唱えた。

 呪文に応え、玄関のガラス戸が音をたてる。誰かが握りこぶしで叩いているような音だ。

「おや、お客さん、かな? ちょっと…、失礼」

 ゆるりと立ち上がった「灰一」が教室から出ていく。入り口に近いところに座っている晶太の耳に、作務衣が床に落ちる「バサッ」という音が聞こえた。

  和之さんは何も気づかず、お茶をすすっている。

 

(さあ、これから、どんなふうにごまかそうか)

 必死に知恵をしぼっているとき、玄関の戸を開け閉めする音がして、ブルーグレーの作務衣を抱えた「紺二」が、教室へ戻ってきた。

「あれっ、その作務衣はどうしたんです。どなたかいらっしゃったのでは?」

 和之さんが目をまるくして尋ねる。

「この作務衣は、洗濯して外に干しておいたのですが、どうやら風に飛ばされたらしい。今、拾ったご近所さんが、届けに来てくださったんですよ」

「ああ、そうだったんですか。この辺はまだ、人情味があっていいですよね」

「まったくです」

 お客のもとへ戻りながら、「紺二」は晶太にだけ見えるよう、横顔に共犯者の笑みを浮かべてうなずいた。

 

(やるなあ、さすが銀ひげ師匠の影武者……)

 晶太は、胸をなでおろしながら感嘆したのだった。

 

 

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ドラマ『パンとスープとネコ日和』になごみました。

 

『パンとスープとネコ日和』は群ようこさんの小説です。

2013年にWOWWOWの連続ドラマ(全4回)として放送されましたが、私は先日、Huluで視聴したところです。

 

【ネタバレ注意】

 

WOWWOWウェブサイトのストーリー紹介

ずっと母との2人暮らしだったアキコ(小林聡美)は、母の突然の死、そして勤めていた出版社の理不尽な人事異動で、母の営んでいた食堂を自分でやっていく決心をします。
自分のセンスで改装したアキコの新しいお店は、パンとスープだけというシンプルなメニュー、お手伝いのしまちゃん(伽奈)との2人だけの小さな店。
ある日現われた1匹のネコと暮らし始めるアキコ、そして、アキコの周りには、楽しく世話をしてくれる、商店街の大人たち…。

 

【ネタバレ注意】

 

 「しっかりしている」「さっぱりしている」などと、周囲の人たちに評されているアキコですが、仕事上で信頼関係を築いてきた料理学校の理事長、山口先生(岸 惠子)からは、「自分が何を好きか分かっている人」と言われます。

『自分が何を好きかわかっている人はね、いろんな力を呼び込むことができるのよ』

 

アキコの人柄を反映するように、ドラマも慌てず騒がず、落ち着いて進行していきます。

住居の1階で「お食事処 カヨ」を営んでいた母親が、店で倒れて救急搬送され、そのまま亡くなってしまうというところから、動き出すストーリー。

大盛りメニューが学生に好評で、常連客も多かった母の店をたたみ、編集の仕事を続けるアキコに、経理部への人事異動が通告されます。昇進ではありますが、

『本を作る現場にいられないなら、私にはこの会社にいる意味がありません』

と言い切るアキコ。

会社を辞め、母親の店をすっかり改装して、「sandwich ä」という、日替わりスープと2種類のサンドイッチ(パンを3種類から選べる)の店を作り始めます。

もともと料理が好きで、専門家の山口先生から「センスも才能もある」と褒められているアキコでした。

『シンプルなメニューで、自分にできることから始めます。自分のやりたいお店をやってみる、それが今の私の決心です』

アキコは山口先生への手紙で、胸の内を報告します。

  

そして、店がオープンしてまもなく、亡き母の旧友が現れ、シングルマザーだった母親の相手(つまり、アキコにとっては父親)の所在を知ることになります。

並べてみると、いくらでも「ドラマチックに」盛り上げることのできる内容なのですが、この作品では、起こる出来事をただそのままに、淡々と描いていくのです。

ことさらに表面を波立てたりしない分、ゆっくりと流れていく時間と日常が感じられ、「人生の仕切り直し」や「再生」というテーマも自然に伝わってきます。

 

静かにエピソードが紡がれていくなかで、アキコの心の声が強く響いたのは、「たろ」という同居ネコが出て行ってしまった時でした。

『私、お店と自分のことだけを考えていたのでしょうか。飼っていたネコが、いなくなりました』

 

ある夜、仕事から帰ってきたアキコを待ち受けるように、玄関の前で座っていたネコ。そのまま、なんとなく一緒に暮らし始めた「たろ」は、家族を失って独りになったアキコのそばに、そっと寄り添う存在でした。

いなくなった「たろ」はラスト近く、また店の前に姿を現します。アキコが再会できるかどうかわからないまま、物語は幕を閉じます。

 

思いがけない人生の転換期を、さまざまな人たちと触れ合って過ごしてきたアキコは、山口先生への手紙に思いを綴りました。

『私は気づきました。今までの自分は、自分自身が不自由にしていたのだということに。先生、私、真面目すぎました。これからは不良になります。自分が自由になれて初めて、人との時間は始まるのだということに気づきました』

 

 

アキコを演じた小林聡美さんは、トークイベントのインタビューで、

「こういうドラマにイラっとしない方に見てほしい(笑)。『何も起こらないじゃないか!』と怒られても困るので、ゆとりのある方に見てほしい」

と、ユーモアを交えて答えていらっしゃいますが、私はむしろ、このドラマを観ているあいだ、忘れていたゆとりを取り戻せたように感じました。

 

 

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仲直りの怪談(創作掌編)~ハヤさんの昔語り#2-1~

 

 私は、慎重に準備を整えてから行動に移す性格だが、ハヤさんと暮らし始めたときは、全く違っていた。

 必要最小限の日数で、追い立てられるように珈琲店の2階へ引っ越してきたのだ。

 新婚家庭的な要素は皆無、奇妙な共同生活の開幕である。

 

 いくら宿命の相手とはいえ、それまで別々に暮らしてきた人間同士が、いきなり生活を共にするわけだから、 多少の行き違いはやむを得ない。

(人当たりのいい常識人だと思っていたが、けっこう変わり者だ)

とは、お互い様な感想だった。

 幸いにも居住スペースに余裕があり、自分の仕事部屋を確保できた。気詰まりなときは、そっと自室に引きこもる。

 しばらくすると、まるで頃合いを見計らったかのように、珈琲の香りが漂ってくる。

 誘われるようにキッチン兼居間へ行くと、

「ちょうどよかった。今、呼びにいこうと思っていたところです」

 ハヤさんが微笑みながら言った。

 

 淹れたての珈琲を前に、向かい合って席に着く。

「瑞樹さん、怪談は苦手じゃないですか?」

「夜中にトイレに行けなくなるほど怖くなければ」

と、私は条件を付けた。

「そんなに怖い話じゃありません。それに、この僕がいるじゃないですか」

 前世で、寸一という行者だったことがあるハヤさんは、涼しい顔で応じた。

 

   △ ▲ △ ▲ △

 

 寸一が修行の旅に出ていた折りのことである。

 夕闇の迫るなか、海沿いの道を足早に歩いていると、波打ち際に若い男が一人、悲嘆に暮れた様子で立っているのが目に入った。 

 見過ごすわけにもいかず、近寄って声をかける。

 男は伍平と名乗り、先の津波で妻のおユイを亡くしたことを、暗い眼で語った。

 

「女房恋しさのあまり、日が暮れると浜に足が向いてしまう。たとえ亡霊であっても、もう一度会いたいと念じていたら──」

 思いが通じたのか、ある時ついに、おユイが姿を現したという。

 ところが、おユイは一人ではなかった。となり村に住む従兄弟、フクジと一緒だったのだ。

「昔、似たような話を聞いたことがあった。亡くした女房に会うのだが、あの世で他の男と夫婦になっていると知らされる。それがまさか、我が身に起こるとは……。子供の頃、フクジとおユイは兄妹のように仲が良かったそうだ。きっとフクジもあの日、同じ波にさらわれて死んだのだろう」

 それでもかまわない、せめて何とか話がしたいと思い、追いかけてみたが、どうしても近付けず、大声で呼んでも、おユイの耳には届かないようだった。

 

「ほら、お坊様。今日もあの岩の上におユイが現れた。また、フクジと一緒だ」 

 がっくりと座り込んだ伍平に、寸一は申し出た。

「それなら私が、おユイさんに伝えてやろう。恨み言だろうと、何だろうとかまわないから、思いの丈を吐き出してごらん」

 伍平は大きく眼を見張り、それから固く閉ざした。食いしばった歯の隙間から、言葉を絞り出す。

「どうして、俺一人を残して逝ってしまった。お前のいないこの世には、もはや何の未練もない。お前の後を追って、俺は海に身を投げようとしたのだ。それなのに、他の男と仲睦まじげに現れるとは……」

 声を途切らせて、むせび泣く。

 

「伍平、もう日が落ちる。暗闇に紛れてしまう前に、おユイさんの姿をよく見るがよい。手に何か持っているようだが?」

「あれは花だ。おユイは花が好きで、俺が道端で摘んで帰ると大喜びしたものだった。そうか、今はフクジが摘んでやっているのだなぁ」

 その瞬間、おユイが海に向かい、束ねた花を放り投げた。

 伍平は不思議そうに首をかしげ、

「なぜ、花を投げ捨てたのだろう?」と、つぶやく。

 寸一は静かに答えた。

「投げ捨てたのではない、手向けたのだ。伍平、津波で命を落としたのは、おユイさんではなく、お前だったのだよ」

 

    △ ▲ △ ▲ △

 

 「哀しい話ね。自分のほうが幽霊だったと知って、伍平さんはどうしたの?」

 聞くと、ハヤさんは少し笑って答えた。

「最初に会ったときは、無明の闇をさまよう幽鬼にしか見えませんでしたが、元は快活な人だったのでしょう。気づいてからの変わりようが見事でした」

 

 状況を理解した伍平は、勢いよく立ち上がり、

『こんなところで嘆いている場合じゃねえ。一刻も早く成仏とやらを果たし、おユイを見守ってやらねば。お坊様、いったい俺はどうすればいい!』

と、寸一に詰め寄ったそうだ。

『光を探し、その光の方へ向かえばよい』

 教えてやると、伍平はすぐに四方八方を見渡し、暗い海に差す不思議な光を見つけた。一筋に続く光の道が、海の面からゆるやかに、夜空へ向かって伸びている。

『あれだ! お坊様、まことにありがとうございました』

 深々と頭を下げるやいなや、一目散に走り出した。

「海から天へと、まるで坂道を駆け上がっていくようでした。あっという間に行ってしまいましたね」

 

 伍平との約束を守り、寸一はおユイのところへ伝言を届けにいった。

 すっかり日の落ちた岩の上では、なかなか帰ろうとしないおユイを、フクジが説得しているところだった。

 驚く2人に寸一は、伍平の亡霊に会ったこと、そして、伍平がおユイを守護するため、今しがた成仏を遂げたことを告げる。

「話しているうちにわかったのですが、どうやら、おユイさんも伍平の後を追うつもりでいたようです。そのことに気づいたフクジさんは、弔いの日からずっと、自分の家族と共に泊り込んで、おユイさんから目を離さないようにしていたのです」

 寸一の話を聞いたおユイは、堰が切れたように泣き崩れたという。

 

 「さほど怖くなかったでしょう?」

「うん。私はもう少し怖い話を知ってるよ。文字にしたら28字くらいの、すごく短い話でね──」

 語り出そうとする私をさえぎって、ハヤさんが口早に言った。

「瑞樹さん、そのお話は明日、明るくなってから聞くことにします」

 

 

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伝聞怪談

 

時節柄、そこかしこで怪談のブログ記事を目にしました。つい、検索もしました。

怖がりの怪談好きなので、興味津々で拝読しては、夜中に思い出して戦慄しています。

 

私自身は霊感が強くありませんが、職場に霊感体質の人がいて、たまに怖い話で盛り上がっています。霊を見たり聞いたり感じたりしても、淡々とやり過ごし、しかるべく距離を置いて社会生活を送っている方たちは、少なからずいらっしゃるようです。

聞いたなかで、特に印象に残っている話があります。

ほどよい怖さの話ですが、とても短いので、内容はそのまま掌編風に、少しカサ増ししてみました。

 

    △ ▲ △ ▲ △ 

 

 20年以上前の話である。

 長いこと闘病していた親族が亡くなり、病室から地階の霊安室へ運ばれた。

 彼は安置された遺体のそばで、しばらく家族と葬儀の相談などをしていたが、尿意を催し、霊安室を出て同じフロアにあるトイレに行った。

 明るく静かなトイレ。

 他に使用している人はいない。

 用を足して、洗面台で手を洗い終え、ふと顔を上げると、一般的なトイレならば必ずあるはずの鏡が、取り外されていた。

(ああ、ここに鏡があると、映るはずのない何かが映ってしまうのだろう)

と思い、そのまま霊安室へ戻った。

 

    △ ▲ △ ▲ △ 

 

 実際に聞いたのは、

霊安室の隣のトイレってさ、洗面台の鏡が外されてるんだよね」(28文字)

「それは、つまり……」

「映っちゃいけないモノが映っちゃうからじゃない?(笑)」

 

しばらくは、夜遅くに、洗面所の鏡を見るのが怖かったです。

 

 

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自由研究(創作掌編)~銀ひげ師匠の魔法帖②~

 

【前回の掌編の続きです】

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 晶太が銀ひげ師匠の弟子になり、魔法の修行を始めてから半年経った。

 

 師匠の営む書道教室に通いつめ、基本の魔法「見えずの墨」を会得したときのことは忘れられない。

 一意専心で磨り終えた墨に向かい、口伝えで教わった「ウタ」と呼ばれる呪文を唱えていると、突然、胸のなかに言葉が舞い落ちてきたのだった。

 ひらがなで5文字の短い言葉。

 それこそ、硯の海に溜まった墨の神様が、晶太の挨拶に応え返してくれた合言葉だった。

 前に師匠から、

「授かった言葉は、心の眼で読みとるのだ」

と聞いたときは、むずかしそうだと思ったけれど、いざとなったら自然にできてしまった。

 晶太はすぐに合言葉を復唱し、続けて新しい「ウタ」を唱えた。今度は「自分だけに見える墨に変わってください」と頼むための呪文だ。

 

 漆黒の墨が一瞬で、透明になった。

 

「そこの半紙に書いてごらん」

 一部始終を見守っていた師匠が言う。

 筆に含ませると水のようだけれど、紙に書いてみれば、くっきりと黒い。それでも、普通の墨の色とは違っていて、ひと目で見分けがついた。

「上出来だ。これからは、授かった合言葉を書き足していきなさい。専用の文箱をあげるから、そこにしまっておくといい」

「ありがとうございます」

 準備運動が済んで、本格的に魔法の修行が始まるような気がした。

「前に師匠がやったみたいに、タヌキの毛の筆に魔法をかけてみてもいいですか?」

「やめとけ。初心者にタヌキは少々ハードルが高い。それより、身近にあってよく知っているもの、ずっと好きだったものから始めたほうがいい。やがてだんだんと、得意分野が明らかになってくるよ」

 植物、鉱物、人工物、自然現象に動物……。

 魔法使いにとって、持って生まれた得意分野を知ることは、とても大切なのだ。

 

 

 小学校さいごの夏休み、師匠のアルバイトのお手伝いでやった「草むしり」を、晶太は自由研究のテーマにした。

 学校の宿題と魔法の修行、一石二鳥だ。

 師匠は、自分の書道教室で教えるほかにも、高齢者福祉施設などへ出張指導に行っている。外では墨汁もOKということにしているので、けっこう依頼があった。

 そういう場で知り合いになったのが、地元のシルバー人材センターで「空き家見守りサービス」を担当している人だった。たまにアルバイトを頼んでくるらしい。

 書道とは関係のない仕事だ。

 

 志野さんというおばあさんが、1年ものあいだ家を留守にしていた。

 病気で手術をして長期入院し、退院したあとも、娘さんの家で療養していたのだ。

 長く家を空けることがわかっていたので、空き家の見守りを申し込んだ。定期的に巡回して、不審者が入り込んでいないか、窓ガラスなどがこわされていないかをチェックしてくれるサービスだ。

 敷地の外から確認するだけだから、誰も住んでいない家が荒れた感じになってくるのは防げない。

 それで、ようやく帰宅できることが決まった志野さんは、ハウスクリーニングを追加注文したのだった。 

 

 銀ひげ師匠が頼まれたのは、家周りのペンキ塗りと補修。書道の師範になる前、家の内外装や、ビルメンテナンスの職にも就いていたという経歴があるからだ。

「晶太のために、庭の草むしりも引き受けておいた。魔法を実践できる良い機会だぞ」

といって、コピーした写真を見せる。

 自宅の庭に立つ、志野さんが写っていた。

 ふっくらと優しそうな顔に笑みを浮かべているけれど、眼は真剣そのものだ。

「入院する前日、志野さんに頼まれて、娘さんが撮ったという写真さ。大切に世話していた庭も一緒に写っている。この写真を、闘病中そばに置いていたらしいね。『必ず帰ってくる』という決意が、顔に表れてるなぁ」

「花壇にきれいな花がたくさん咲いている」

「昨日、下見してきたら、庭一面が藪みたいになっていたよ。晶太の仕事は、単なる草むしりじゃない。抜くべき草だけを抜いて、できるだけ元の姿の庭に近づけてほしい。それには魔法の力も使わないとな」

 晶太のなかで、アルバイトのお手伝いが『ミッション』に変わった瞬間だった。

 

 8月の蝉時雨と照りつける日差しの下で、晶太は10日間を過ごした。

 作業は朝早くに始めて、日が高くなる前には切りあげる。冷えた飲み物をつめたクーラーボックスに梅干し、麦わら帽子と首に巻くタオルは必需品だ。

 移植ゴテやクマデ、ねじり鎌などの道具を、師匠が貸してくれた。

 初めて見る物もあったけれど、使い方のコツは道具から直接教わった。

「きちんと作られた道具というものは、自らの使いやすさを知りつくしている」

と聞いたからだ。

 

 晶太は、今を盛りと生い茂る藪に立ち向かっていった。

 まず、元々庭に生えていた「お庭組」なのか、それとも外からやってきた「野原組」なのかを確かめなければならない。

 一群れずつ、その植物を司る神様に挨拶して、合言葉をいただき、尋ねる。

 そして「野原組」ならば、引き抜いてしまうのだ。

 胸の奥がチクッと痛んだけれど、そのたびに志野さんの笑顔とミッションを思い出しては、次へ向かう。

 長そでの作業着と園芸用の手袋でガードしていても、いつの間にか腕のあちこちを草で切っていて、汗が流れると小さな傷に染みた。

 ときどき「お庭組」に出合うのが、晶太はうれしかった。「野原組」の勢いに押され、ぐったりしていることが多かったけれど、もうすぐ志野さんが帰ってくることを伝えて、元気を出すように頼んだ。

 

 その日の作業が終わると、師匠と一緒に書道教室へ戻る。

 晶太は新たな合言葉を半紙に書き足したあと、師匠のパソコンを借りて、引き抜いた「野原組」の草たちの名前を調べた。レポートにまとめれば、自由研究の出来あがりだ。

「どうだ、調子は?」

「はい、順調です。師匠はどうですか?」

 ひびわれた古いペンキを削り落として、サンドペーパーをかけた後、下塗り、中塗り、上塗りをすると聞いたけれど、今がどの段階なのか、見ただけではわからなかった。

「いよいよ明日から仕上げに入るよ。来週にはシルバー人材のハウスクリーニング部隊が来るからね。水道や電気もちょっと見てあげる約束なんだ」

 師匠が作業中にどんな魔法を使っているのか、気になって質問したら、

「うーん、塗りたてのペンキに虫がとまらないよう頼むくらいかな」

という答えだった。

 

 家と庭が見違えるほどきれいに整い、すべてのミッションを果たしてから2日後、晶太は銀ひげ師匠と共に、とあるビルの外階段の踊り場にひそんでいた。

 かなり距離はあるけれど、ちょうど志野さんの家を正面から見下ろすことができる場所だった。

「あのタクシーじゃないかな?」

と、師匠が指さす。

 今日、この時刻に、志野さん母娘は、シルバー人材センターのスタッフと会って、作業完了の確認をすることになっているのだ。

 師匠がお掃除部隊のひとりから、さり気なく聞き出してきた情報だった。

「さいごまで見とどけたい」

という晶太に協力してくれたのだった。

 

 タクシーが家の前に止まり、大きな荷物を持った女の人が降りる。

 続いてゆっくり降りてくる志野さんを見て、晶太は胸が突かれる思いだった。

 写真の姿よりも、ひと回り縮んでしまったようにやせていた。杖にすがりながら、一歩ずつ歩き始める。

  そして、晶太は見とどけることができた。

 庭の小道を歩いて家の扉を開けるまでのあいだに、弱々しかった志野さんの背中がすっと伸び、生き生きとした力を取り戻していくところを━━。

 

 

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